猫が見た景色

okapia2009-06-20

"fritz-cam-galerie"
http://www.katz23.de/fritzcam-galerie.htm
定期的にシャッターが切られるカメラを首にぶら下げた猫のFritzが見た景色。 
いつでも他人の視界にスイッチできる心でいたい。
 
道でよたよた歩いていたちいさなちいさな女の子。ぎゅっと両手で抱えた真っ白い大人用の傘(たぶんお母さんの)は、まるで棒高跳びに使うポールのようだった。
あそこの八百屋のバナナの山だって、きっと鬱蒼としたジャングルなんだろうね。
特価、密林128円。

臓器移植法改正案について

「一転、臓器移植法案「A案可決」賛成263票」
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090618/plc0906181324009-n1.htm
 

各案のまとめ(wikipedia:臓器の移植に関する法律)。

A案(2006年3月31日第164国会衆法第14号)

  • 提案者は、中山太郎自民党)、河野太郎自民党)、福島豊公明党)ほか衆議院議員計6名
  • 改正内容は、年齢を問わず、脳死を一律に人の死とし、本人の書面による意思表示の義務づけをやめて家族の同意で提供できるようにする。
  • 利点は、家族の同意があれば、子供への臓器移植が可能になる。
  • 問題点は、脳死を一律に人の死とすることに抵抗が根強いこと、親の虐待を受けて脳死になった子から親の同意で提供されて虐待の証拠が隠滅される懸念があること、脳の回復力が強い乳幼児の脳死判定は医者でも難しいこと。

B案(2006年3月31日第164国会衆法第15号)

  • 提案者は、石井啓一公明党)ら衆議院議員計2名
  • 改正内容は、臓器移植の場合のみ脳死を人の死とすることは変えずに、年齢制限を現在の15歳以上から12歳以上に引き下げる。
  • 利点は、死の概念を変えなくてすむこと、本人の意思を必要としたまま、対象の拡大ができる。
  • 問題点は、12歳未満の臓器移植に対応できない。

C案(2007年12月11日第168国会衆法第18号)

  • 提案者は、阿部知子社民党)、枝野幸男民主党)、金田誠一民主党)の衆議院議員3名
  • 改正内容は、臓器移植の場合のみ脳死を人の死とすることや書面による意思表示要件は変えずに、脳死判定基準を明確化(厳格化)するともに、検証機関を設置する。年齢制限の変更は法案内容に含まれていない(変更しない)。
  • 利点は、移植の客観性や透明性を高めることができる。
  • 問題点は、臓器移植が進まない現状の改善ができない。

D案(2009年5月15日第171国会衆法第30号)

  • 提案者は、根本匠自民党)、笠浩史民主党)ほか衆議院議員計7名
  • 改正内容は、15歳未満の臓器提供について、家族の代諾と第三者の確認により可能とする。臓器移植の場合のみ脳死を人の死とすることや15歳以上の臓器提供手続については、法案内容に含まれていない(変更しない)。
  • 利点は、死の定義を変えることなく、15歳未満にも移植の可能性を開くことができる。15歳未満については第三者のよる確認が確保される。
  • 問題点は、15歳以上について、本人の意思確認が必要で臓器移植が進まない現状の改善ができない。15歳未満について、家族に承諾するか否かの困難な判断を迫ることになる。

 

自分はC案に賛成する

以下、個人的見解。
頭と心が整理しきれないけれど、せっかくの今日なので。
今回の「改正」は、「新法制定」に匹敵する政策決定だったと思う。
 

  • A案には、反対。

子どもの人権を侵害するパターナリズムの典型だと思う。子どもは家族の持ち物じゃない。本人の同意抜きで「『死』体」から臓器を取り出すのか。

  • B案は、微妙。

臓器提供意思表示カード(「ドナーカード」は「ドナー(臓器提供者)であることが原則」という誤解を招くと自分は思う。)が15歳以上で有効なのは、遺言が残せる年齢が15歳、という民法に準じているからだろう。では12歳の遺言を有効と扱うよう、民法を改正するのか。

  • C案には、この4つの案の中だと賛成。

ただし、臓器移植件数を増やすことは難しくなる。

  • D案には、反対。

三者機関による確認を採り入れてはいるものの、本人の同意無しに移植可能というのは抵抗感がある。「子ども」だから意思決定過程に参加しなくてもいいというのか。そもそも「ドナー」の人権を守るだけの実効性が第三者機関にあるのか不明。
 
臓器移植件数を増加させたいという「政策的視点」から考えれば、人を「資源」や「共有財産」として扱うA案やD案が望ましいのかもしれない。しかし自分は人を「資源」とは思えない。少なくとも、本人同意の無い人間(子ども)から取り上げた臓器を「資源」として考えることはできない。民法上遺言が成立するように、死後の自己決定権も人権として尊重すべきではないだろうか(もっとも15歳未満の子どもは遺言を残せないが。)。A案やD案は本人の意思を軽視し過ぎている。
臓器移植ができないと死んでしまう人が現実にいる、という反論もある。しかし、命を大切に思うのであれば、本来「死」と扱われなかった人が公共のために心臓を止められてしまう可能性があるという危険も、よくよく踏まえておくべきだろう。脳死状態にある人の命は、臓器提供を待つ患者の命よりも軽いのか。
臓器移植に賛成することが「正しいこと・良いこと」というステレオタイプが形成されつつあることにも、非常に違和感がある。「正しい」から臓器移植しなければならないとする偏った視点には、人権保護の思考が欠けている。人間の死を決定することについて、軽率な判断はすべきでないと思う。
政治的にも社会的にも意見表明できない子どもの人権を侵害することには、慎重でなくてはならない。
子どもは大人以上に細胞活動が活発で、脳死状態から復帰する可能性も比較的高い。参考として、心停止して「ご臨終です」の後に死体を24時間安置する理由は、死後間もない遺体は蘇る可能性があるからである。実際に、死体安置所の遺体が蘇る事件がたびたび報道されている。脳死状態からの復帰であれば、心停止状態からの復帰よりも「蘇生」可能性が高いと思われる。人の死の定義は可能な限り医学的に反駁不能な線引きで決するべきではないか(自分の感覚的には24時間でも短いような気がする。現在は遺体保存技術も発達しているだろうから、もっと長くてもいいのかもしれない。)。

墓地、埋葬等に関する法律
 第3条:埋葬又は火葬は、他の法令に別段の定があるものを除く外、死亡又は死産後24時間を経過した後でなければ、これを行つてはならない。但し、妊娠7箇月に満たない死産のときは、この限りでない。

 
選択肢としては、臓器移植法を廃案にする「E案」が存在してもよかったと思う。人の死の定義を、議論を尽くさず安易に変更すべきでない。
 
それでも、ドナーをかってでる人や移植を求める患者が存在することも確かである。国民からの政策決定要請がある中で立法府の国会が立法不作為状態を放置し続けることは、望ましくない。
よって、子どもの人権を現状で可能な限り保障できる「C案」に自分は賛成する。
 

関連して

こうした人の死に関わる問題に直面すると、エドガー・アラン・ポーの「早すぎた埋葬」やヤン・シュヴァンクマイエルの『ルナシー』(cf.Dec.9, 2008)、ジョン・ハリスの「臓器くじ」問題を想起する。

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 臓器くじ(英語:survival lottery)は哲学者(倫理学者)のジョン・ハリス(w:John Harris)が提案した思考実験。「サバイバル・ロッタリー」とカタカナ表記されることが多い。これは「人を殺してそれより多くの人を助けるのはよいことだろうか?」という問題について考えるための思考実験で、ハリスは功利主義の観点からこの思考実験を検討した。
 「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。

  1. 公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。
  2. その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。

臓器くじによって、くじに当たった一人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。

  • 事故にあって死ぬことよりも積極的に殺すことのほうが罪が重い。

→臓器が必要な人をそのまま死なせるのは見殺しにするのと同じことであって、移植しようがしまいが殺すことに変わりないのではないか。

  • いつ臓器を奪われるか分からない状況に怯えることになる。

→多数の人から無作為に選ばれるならば病気や事故に遭って死ぬ確率がごくわずかに増えるのと同じことであり、それを受け入れるのであれば臓器の移植を受け入れない理由はないのではないか。

  • 生死は天命によるものであって人が誰が死ぬべきかを決めるものではない。

→臓器を移植せずに死なせることも同じように誰が死ぬべきかどうかを決めることではないか。

  • こうした社会制度の下では、臓器を提供する側から除外されるよう人々が競って不健康になろうとするというモラル・ハザードが起きるのではないか。

→不健康になれば自身が病死する確率も高まり、また、臓器を提供することのできる人間の基準が引き下げられるであろうため、長期的に見れば自身の健康をあえて損なうことの意味自体が薄れるのではないか。

  • 臓器提供はしたい人がやればいいのであって、籤だからといって臓器を提供したくもない人が強制されるのは人権侵害ではないのか。

→緊急避難の考え方を社会全体に適用できないか。死ぬ人数が少ない方が、より多くの人権を保護することになるのではないか。

  • 臓器移植を必要とする人を助ける方法は他にもあるのではないのか。

→思考実験の内容として「死人の臓器や人工臓器では代替できない」とある。

  • 社会全体としては、臓器移植が必要な重病人数人の生存よりも、健康な人間一人の生存のほうが有益なのではないか。

→健康な人間一人が社会全体に与える損益は、その個人の生命活動そのものとは無関係なのではないか。また、移植を受ければ健康状態は格段に改善する。

  • 臓器くじに超一流の芸術家やスポーツマンが当たった場合どうするのか。

→臓器をもらう側も超一流の芸術家やスポーツマンである場合もあり得るし、提供する側が凶悪な犯罪者である場合もあり得る。

 
脳死を「人の死」と定義するのは「早すぎる埋葬」なのではないか。
いやいや臓器は公共の資源だ。脳死を待つなんてもどかしい。いっそくじ引きで殺したっていい。
 
どのような政策が人間をより「しあわせ」にするのか。
生命倫理の問題は、判断が本当にむずかしい。

Fuck'n cool, JAPAN!!

わけのわからない国、だとか。
 
 



 
 
大学一年の英語の授業で、「あなたが考える日本の魅力は何か」という質問があった。
英語で返答しなければいけなくて、しどろもどろに「伝統と最新の技術とが混在しているところ…でしょうか…」と述べたのを覚えている。正直、自分の中ではいまだに明確な答えが出ていない。
 
それでも、数年東京に住んで、掛け値抜きにおかしな国だと思うようにはなった。
神社の隣に寺、その隣にでんと建ちそびえるモダンなデザインビル。プリウスが世界で何万台売れたとかのニュースの直後に、忍たまのアニメ。ドラえもんが出す道具は竹とんぼを模した「タケコプター」。市井のラーメン屋には「半ライス」。ニュースの終盤天気予報、最後に来るのは血液型選手権。「伝統的な和のテイストでロハスなサマーバケーション☆」というキャッチコピー。「Chanko Dining 若」。
新しいもの古いもの、二つのもの双方を「日本らしい」と形容できるものの、その二つが文化的に地続きとは簡単には思えない。水と油がケンカせずに当然のように街にあふれている「日常」は、なかなかやっぱり妙ちきりん。
 
「和」の文化は「プラス」の文化(「和」=足し算の結果)、魅力を感じれば何でも自然な形で吸収し、新たな調和を生み出す。
気持ちが穏やかになる「和む(なごむ)」、は奥が深いことばだと思う。

くっつくときは慎重に。

okapia2009-06-15

市町村変遷パラパラ地図
http://mujina.sakura.ne.jp/history/
市町村の移り変わりをGIFアニメのパラパラマンガで眺められるサイト。一種の歴史地図(cf.Oct.7, 2007)。
 
たとえば、秋田県のパラパラ地図。
http://mujina.sakura.ne.jp/history/05/matome.html
市町村が、まるで国盗り合戦のように猛烈に減っていく。
平成の大合併では、明治の大合併や昭和の大合併で合併の動きが鈍かった県の集約勢いが特にすさまじい。秋田県はその典型例の一つだ。
 

合併すれば「しあわせ」になれるか

合併にはメリット・デメリット両方が存在する。よって、合併「する」「しない」どちらが良かったのかはわからない。合併の「結果」を誤差無く精確に評価するためには、時空を超越する必要がある。そんなパラレルワールド水掛け論は、面倒なのでここでは脇に置いておく。
精査すべきは「過程」の部分である。
平成の大合併において、合併すればそれだけで現状の問題点が改善する、というような安易な思考が住民に蔓延していた点は、いまだに解せない。これは秋田県においても当てはまる。
行政の効率化と充実を推進するためには市町村合併も仕方ないことだった、とは思う。しかし、本当に実現したいのが何なのか住民自身が理解し(ようとし)ないまま「なんか合併した方がいいらしいけど…みんなどうする?」的に結論の決まりきった議論をしながらずるずると合併に至ったところで、住民の「しあわせ」は実現できるのだろうか。議論や説得や納得を通じた討議的合意形成過程の積み重ねなくして、住民の「しあわせ」は決して実現できないと自分は強く思う。
念のため付け加えると、自分は広域行政の推進には賛成の立場だ。過去の合併論議にやや批判的な理由は、市町村合併にしろ道州制にしろ最終的結論にいたるまでの合意形成過程がすっからかんでは誰も「しあわせ」になれない、と信じており、その観点から過去の合併論議を振り返るとあまり評価できないと感じるからである。
 

「ひらがな」で消えるものたち

また、「ひらがな市」をもてはやした一時のブームにも、複雑な気持ちにさせられた。
地名は土地の歴史や文化を静かにかつ如実に物語る貴重な存在であって、名称を変更する際には細心の注意が必要だ。民俗学者谷川健一氏は、地名は最も息の長い文化遺産だ、と述べている。
「ひらがなは字面が間抜けだからおかしい」と批判する人もいるが、問題の本質はそこではないと思う。ひらがなにはひらがなの風情がある。「さいたま市」が何か生理的に変な気がするのは、他の市町村が漢字ばかりだからだ。他の市町村が99%ひらがな名になったら、変なのはきっと漢字名の方だ。カタカナばかりのアメリカの地図で「ロサンゼルス(Los Angeles)」だけが急に「羅府(ロサンゼルスの漢字名)」と表記されていたら、誰だって妙だと思うだろう。ひらがなが気になってしまうのは、要は雰囲気の問題だと思われる。
ただ、地名変更で生じる歴史の消滅は「雰囲気の問題」では片付けられない。
たとえば、「大宮市」を(与野市浦和市と合併させて)「さいたま市」に変えるのは、氷川神社門前町として栄えた武蔵国一宮の栄光の歴史をばっさりと切り捨ててしまうようなものである。お偉いさん方は、そうした歴史と伝統の深遠な厚みを承知の上で、あえて「親しまれやすい」ひらがなの「さいたま市」を選択したのだろうか。軽率であったとの批判は簡単には免れられないだろう。
ただし、大宮地域については2年後に「大宮区」が誕生したそうだ。論点を微妙にずらした妥協の産物な気もするが、落としどころを上手にかぎ分けるお偉いさん方の調整力に、ちょっと感心している。
 
一方で、大宮市復活を狙う勢力の火はいまだにぶすぶすとくすぶっている。
『大宮市亡命市役所』
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/3440/
なかなかすごい剣幕だ。
 

パグが死んだ

okapia2009-06-14

昼前、実家の愛犬パグ(名前も「パグ」)の悲報を聞く。
老犬もすっかり板に付いていたので、連絡を受けてどんと落ち込んだというよりも、そっか…というしみじみとした気持ちになった。
 
いろいろな楽しい思い出はたくさんあるけれど、今何となく思い出したのは赤飯の話。自分が食べていた赤飯をパグに分けてあげたら、うまく食べられなくて顔中べたべたになっていた。見かねて掃除してあげようと床にこびりついた赤飯を取り上げようとすると、ふいに「カプッ!」と二の腕を噛まれた。あれはこのやろー(゜ロ゜)だったな。
 
画像は、二年ほど前のパグ。
風呂を嫌がるものの結局観念したようだ。
 
あなたと初めて会ったのは、小学校の頃。自分の友人が数人遊びに来ていた時だった。どうも「パグ」という種類の犬らしい…聞いたことのない音の響きが妙におもしろくて、「パグ」「パグ」呼び続けていた。名無しの犬は、そのまま「パグ」の「パグ」になった。
血統書付きの美犬。ジャーキー大好き、打ち上げ花火が嫌い。「お手」と「伏せ」と「待て」はできるようになった。ジャーキーを前に「待て」をさせられている時の悲しそうな表情は、ついついすぐに「よし」と言ってしまいたくなるくらいに役者だった。「パグ」ではなく他人の名前を呼ばれても、目をきらきらさせながら振り向いていた。(パグも自分も)ちいさな頃は、着ているTシャツの中に突っ込んで首だけ出させて一緒に自転車に乗ったこともあった。多少成長してから同じことをしたら、Tシャツからビリッという音が聞こえたので、やめた。迷惑そうな顔をしないでほしい。夏にスイカばかり食べたがったこともあった。一人で勝手に首輪を外して散歩してるんるん戻ってきたこともあった。乗せられた車の中はガタゴトしてちょっと居心地が悪かった。海辺を颯爽と駆け抜けたこともあった。猫やカラスにエサを盗まれたこともあった。番犬として門番を務め、扉に映る家族の影にわんわん吠え続けたこともあった。あれは勇気というより、たぶんこわがりだったんだと思う。でもそんなパグが好きだった。外に繋がれていても、さみしくなるとすぐに家の中に入りたがる。甘い声でくんくん鳴いて、家族の気を引こうとする…と思ってる間に戸を無理やりこじ開けて部屋に飛び込んでくる。彼は根っからのさびしんぼだった。
 
愛されていたパグ。天国で楽しい生活を。
生まれ変わるとしたら何になりたかったですか?
 
またどこかで会おうぜ。