愛する人の名を呼ぶために

okapia2008-11-26

"How to Say That Name.com"
http://www.howtosaythatname.com/
発音がわかりにくい人名をデータベース化しているサイト。英語。
アルファベットは<表音文字>。文字自体は基本的に意味を持たず、文字が特定の順序で繋がり一語で発音できるようになったときに初めて一つの言葉としての意味を成す文字体系。だから、単語をどのように発音するかは重要な問題。それがよりsensitiveな人の名前であれば、なおさら。
にもかかわらず、(現代?)英語は綴り字と発音との乖離が非常に複雑。英語を学習する外国人が途方に暮れる要素の一つだろう。
使いやすそうなサイトなので、気が向いたときにでも覗いておこう。
 
間違えられやすい名前を初対面の人が正しく読んでくれると嬉しいもんね。
自分の名前を一発で読んでくれた人は、生涯で5人ぐらいかな。指折り数えてみる。
よく考えれば、自分の名をこちらから発する前に文字表記だけ相手に伝わっているのは特別な条件下なのかもしれない。<生徒―先生>が一つの例。目を見つめたことすらないのに、名簿だけが相手の手元に渡っている。初めて名刺を手渡すときもそうか。はじめましてと自己紹介したときはまったく逆。むしろ、その名はいったいどんな字で書くのかが話の間を埋める種となる。
漢字は一般的に何通りかの読み方があるわけだけれど、たとえば教室で新任の先生から半ば当てずっぽうで自分の名を呼ばれたとき、これまで見えなかった世界がぱあっと広がる。「あぁ、この人の人生にはそういう風に読むような名前の人がいたのかな」とか「どこかの有名な小説の登場人物にそんな人がいるのかも」とか、たびたび考えたものだ。何年後かに勘が当たっていたことに気づき、誰に伝えるでもなくおもしろがったりしていた。
 
表音文字>の名前に、自分はまだ慣れない。
漢字のような<表意文字>であれば、読めなくてもいくらかは手がかりがある。<三郎>なら「兄弟が何人かいて、この人は三男なのかな」と考えたり、<美子>なら「親が(心や見た目が)美しい子に育つように願ったんだろう」などと推測する。ところが文化圏や言語圏が異なると、名前から相手の背景を察することが難しくなる。聖書やコーランが元になっていたり、とある偉人の名の変形かもしれない。そうした<濃い部分>を、無教養な自分はくみ取ってあげることができない(ことが多い)。相手を知る一つのとっかかりが失われ、日本語(もしくは漢字)を介したコミュニケーションに劣った<出会い>となる。もったいないことだ、と最近つくづく感じている。
もちろん<表音文字>の名前が嫌いなわけではない。音の響きだけでも<あなた>は自分にとって<あなた>である。
ロシア文学の変形名前オンパレードには、もう勘弁してよと思ってしまうけれど。
 
愛する人の名を呼ぶために、言葉は生まれたのかもしれない…
と続くのは「愛する人の名を呼ぶために」(奥井亜紀『青空の手紙』)。

青空の手紙

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どうせ呼ぶなら、いっぱいの心を込めて呼んであげたい。