<空気>と闘う積極的不作為の擁護をしてみる。
ドラッカーと大平正芳の言葉
経営学者・社会学者のドラッカーが述べた
"The most important thing in communication is hearing what isn't said."(コミュニケーションにおいてもっとも重要なのは、言われていないことを聴くことだ)
という言葉と、
元首相大平正芳の
「政治とは明日枯れる花にも水をやること」
という言葉は、本質的に似たものなのかなと思った。
誰に水をやるのか
大平元首相の言葉を読んで自分が思ったのは、「明日枯れる花にも水をやる」とは、優しい心をもって貧しい人々に福祉を与えるという慈悲の意味だけでなく、その裏には、枯れる花の下に眠る瑞々しい球根や若い木々の芽を見つめる熱いまなざしが存在しているのではないか、ということ。大平さんの本音がどうだったかは知る由もないけれど、ドラッカーの言葉共々非常に含蓄のある言葉だと思う。
空気を読めないと読まないの違い
以前書いたとおり(cf:Mar.4, 2008)、空気を<読めない>行動は批判されるに値するかもしれないが、長期的大局的視野に立脚した空気を<読まない>人間がコミュニティから排除される状態はよろしくない。そうした理由で、<KY>という短絡的で薄っぺらい語が、自分は好きでない。空気なんて地球上いたる所に存在するわけで、さもすべて見越したかのように相手を切り捨てる姿勢は好ましくない。
空気を読むのは難しい
とはいえ、難しいんだろうなぁ、とも思う。
<ここに存在するもの>を見つけるのは容易でも、<ここに不在のもの>を的確に把握するのは、魔法だ。
無いにも関わらず、あの人は頑なに<ある>と言う。何故<ある>か?
<ある>からである。もしくは、<無い>からである。この二つが相矛盾せず通底している場合にのみ<空気>が読める。見えないものを観る。聞けないものを聴く。これが魔法でなくて何が魔法。
以上を踏まえ、「空気を読むのは難しい」という前提の下、空気を読んだ後の行動の種類について一意見を述べる。
一般的なのは作為と消極的不作為だけど…
意味を探れない人間が<革新>をやったって後のためにならないし、意味を探れない人間が<保守>を見れば生ぬるく思える。改革変革何でもいいけれども、空気を読むつもりなら本気で読み切ってほしい。流し読みでなく、理解。そこまで責任がとれないのであれば、動いてはいけない。また、読み切れたと確信し<自信をもって動かない>という選択肢の存在も、知るべきである。前者後者両方とも動いてはいないが、その価値、その勇気はまったく異なるだろう。前者は身の程を知る、後者は熟慮断行と同義である。
自分は<保守>を推奨するわけでない。それでも、<空気を読む>という作業の後の行動が<作為>か<消極的不作為>どちらかしかないように決めつける風潮がどうにも気にくわない。
積極的不作為=自信をもって動かない
空気を読んだら
- 作為
- 消極的不作為
- 積極的不作為
これら3つの選択肢が存在すべきである。
最後の"3"積極的不作為は(自分自身含め)決断者本人が見落としがちな選択肢であるし、実際に選択したとしても周囲に評価されにくい。むしろ往々にして不当に批判をうけるのではないか。
決断者の寂しさ
大平さんの例でいえば、現状が<水をやっている>状態だとして、空気を読んだ上で
- 自己の判断で水を止める
- 判断しかねるのでそのまま水をやりつづける
- 自己の判断でそのまま水をやり続ける
確信犯は確信犯と周囲に認知してもらわなければ決断者は名将どころか確信犯にさえなれない。ただの無能な暴君と見なされるのみである。"2"と"3"が周囲に混同されることほど、決断者にとって寂しいことはないだろう。そしてその安易なレッテル貼りは、コミュニティ全体にとっても後に不幸な混乱を招くものと思われる。
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とりあえず今日は論を投了ー。