コドモの悩み

okapia2009-02-06

<コドモ>って普段どう書きますか?

  1. 子供
  2. 子ども
  3. こども
  4. コドモ

よっぽどの当て字をしない限り、こんなところでしょうか。
自分はいつからか、習慣的に"2"の<子ども>を使っています。みなさんはいかが?
 
この記事の中では、中立的なKODOMOの意味として<コドモ>を使用します。あしからず。
 
さて、<子供>でいけない理由として世間で主張される内容には

  • 「供」は<大人のお供>や<お供え物>を連想させ、オトナと比べてコドモの人権を軽んじた表現だから。
  • 「供」はただの当て字で意味が無い表現のため、「ども」とひらがなで書く方が正しい。

などがあります。
 
個人的には、人権派の方から「この人は人権を軽んじている」と勘違いされないように、予防策的に<子ども>という表現を好んで使います。些細なことばの使い方でも自分自身の価値を不当に値踏みされるのは嫌なので、誤解を与えないように気をつけていました。一般的な辞書的<子供>ではなくあえて<子ども>を使用することで、「自分はコドモの人権をきちんと意識していますよ!」というアピールをしていたわけです。
そして、普段から使っているうちに<子供>より<子ども>の方が目に馴染んできて、今では特に意識もなく自然と<子ども>のみを使うようになりました。
 
似たような議論が<ガイジン>問題。参考までにリンク。

  • 「外人さん」問題を考える

http://d.hatena.ne.jp/okapia/20081113/p1
 
そんなコマカイことバカバカシイ、などとは言うべきではありません。
差別意識や被害感情は、往々にしてとても水掛け論的でややこしい場面を生み出します。そんな意図で使用したわけじゃない!別に他意は無い!なんて言っても、通じない相手はたくさんいます(主義が異なる相手に対する敵対的意識はありません)。また、弁解の機会が与えられればまだましな方で、多くの場合は「あーそういう人なのね」と即座にレッテルを貼られることでしょう。複雑化した社会で生きるとは、きっとそういうこと。
以上の理由から、複数の書き方が世に混在している場合、よくよく考えながら自分のことばの使い方を選択していった方がよさそうです。発することばには、ふりかかる誤解をはね除けるだけの信念が必要なのです。
 
では、<コドモ>はどうしましょう。

  • 「こども」の語源は、万葉集において「子」の複数を表す「胡藤母」・「子等」である。このうち「子等」は上代から室町時代まで用いられた。
  • 院政期頃から「子等」に代わって「子共」という表記に増え始め、複数の「子」を表すのに「こどもたち」「子共衆」などと呼ぶようになる。つまり、この時代から、「こども」が複数の「子」ではなく単数の「子」を表す意味でも用いられるようになった。
  • 「子共」が「子供」と表記されるようになったのは、近世に入ってからである。

「子供」・「子ども」双方の表記に対する不同意・反対を受けて、すべてひらがなで「こども」と書くべきだという主張がある。この表記は、「子供」という表記に対する上記第4の反対論をさらに徹底した立場と考えることもできる。例えば、日本の国民の祝日の一つ「こどもの日」は、法文においても「こども」と表記されている。

小中学校の国語の教科書では、「子供」「子ども」両方の表記が行われており、少なくとも小学校では「子供」を用いている方が多数派である。中学校では、全5社中、「子供」が光村図書、教育出版の2社、「子ども」が三省堂、東京書籍の2社、両方見られるのが学校図書、とほぼ拮抗している。各社の教科書採択率を考えると、「子供」と記した教科書で学んでいる生徒の方が多数派であると考えられる。小学校では、5社(光村図書、教育出版、東京書籍、学校図書大阪書籍)のうち少なくとも4社(光村図書、教育出版、東京書籍、学校図書)が、六年配当の教育漢字である「供」を学習後は「子供」を用いている。(大阪書籍については確認していない。)小学5年まではどの教科書も「子ども」を用いているが、それは未習の漢字だからであり、「子供」という表記を忌避しているわけではない。

以上、Wikipedia:子供より。
 
世の中で権利が侵害されている(とされる)側の人々(ex.コドモやガイジン)の呼び方や表記方法は、解決が難しい。<正しい>とされるある程度のコンセンサス(ex.子どもや外国人)は社会に形成されつつあるとはいえ、必ずしも絶対に正しいとは言い難い。んんー、どうしよう…。
 
自分はしばらく、<子ども>&<外人さん>で通します。
異論結構。みんな大いに主義を持てば良いと思います。<ことば狩り>などと思考停止してはいけない。ことばだって昔からサバイバルしながら生きているのです。誰かに説明・説得可能な思想上の立場がぶつかり合えば、議論・討論を通じてより良い社会発展に確実に寄与することでしょう。