「ほら、あのおじちゃんに怒られちゃうよ」では「ソト」に会えない

okapia2009-03-21

http://d.hatena.ne.jp/azumy/20090306/1236306390
「お兄さんに怒られるから静かにしなさい」と、子どもに言い聞かせている保護者を見かけたことがある。何もひと(オニイサン)の目の前で言わなくても、と思う。まるで自分が悪いことをしたかのようだ。
家庭教育の当事者に突然に巻き込まれた自分としてはそうした無責任なしつけ方法は不愉快で、善悪の判断基準の裁定を見知らぬ人間に転嫁してほしくないと強く思う。
 
上記記事にもあるように

そんなとき、具体的な「目の前の他人」をとりあえず置いてみると、わりと理解してくれたりする。「そこのおじちゃんが、そういうことをするあなたを見て、いやな気持ちがするかもしれないんだよ」。こう言うと、子どもは、あ、そうなのか、と腑に落ちる、らしい。
こっちとしては、その人を悪者にしたいわけでは全くなくて、そのように表現しないと、子どもに「自分のことを、(自分の内的世界には存在しない)赤の他人が実は見ていること」「赤の他人が自分の行為によって不快になること・迷惑すること」「自分の狭い内的世界よりもずっと広い世界・社会が存在していること」をうまく理解させられないからなのだ。

「公共」や「社会」の投影として具体的対象(自分の場合だと「お兄さん」)を持ち出すのは、子どもが理解しやすい説明手段なのだろう。お化けが出るぞ、なんかも類似した教育方法だ。
 
ただ、何のために子どもに注意を促すのか理解せず、言葉を選べない保護者が多すぎる。

今日、スーパーで買い物中に通り道に小学校中学年位の女子が立ち止まっていたので、カートが通れない為「すみません」と声をかけました。
少女は気が付かなかったようなので、あきらめてUターンしようとしたところ、母親らしき女性が「ほら、危ないよ」と促してくれました。
ですが、私は別に無理やり通ろうとした訳でないのに『危ない』って何なんでしょう?
特にその女性も『うちの娘に何するの』といったようなニュアンスではなく、単にそういう言い回しをする人なだけだったのでその場は流しました。
私が子供の頃は、こういった場合には母から『ほら、邪魔でしょ』と言われていたし、それが正しいと思います。

公私の分別をつけさせるための親の指導が求められる場にも関わらず、狭隘な視野(この場合だと「『私(母親らしき女性)の』娘」or「私(母親らしき女性)」)でしか考えていない。個人的次元の感覚が無意識に自己本位にのどをつくから、言葉が「ほら、邪魔でしょ」「周りの迷惑になる」という社会的次元にまで達しないのである。
 
「ソト」を知るための指導、という点では体罰をめぐる議論とも似ている。
以前、大学の講義で「子どもに体罰を与えることは容認できるか否か」という問いかけをされた。
自分の立場は消極的容認である。おそらく世間でのマジョリティはこちらであって、まったく手を上げずに社会に適応した子どもを育てられると考える急進的な人の方が少ないだろうと思う。
自分が体罰を消極的に容認する前提には、「公共」や「社会」をゼロから理詰めで理解させるのは困難だという自覚がある。「ソト」は「ウチ」の中には存在しない。「ソト」に囲まれて「ウチ」があるにせよ、「ソト」と「ウチ」が対峙するにせよ、どちらも「ウチ」の中には「ソト」は無い。
「ウチ」を超えた視点で物事を考えるためには、「ソト」のルールに対し何らかの方法で融和させてやらなければならない。「ソト」のルールを体得する一つの方法は、子ども自らが新体験に巡り会うことである。「常識」(「ウチ」)で処理しきれない問題にぶつかって、四苦八苦して自ら創造的に新たなルールを自己の中に生み出すのである。
もう一つは、誰か自己以外の人間から新たなルールを高圧的に叩きつけられる経験、この一種が体罰だ。自分は「ウチ」しか持たない状態で「ソト」を知ることは困難だと考えるから、もう一方の手段(体罰)を欠いては心許ないと思っている。車に轢かれそうな子どもは車に轢かれないと車の危険さはわからない。だがそれでは子どもの生存を害してしまう。さまざまな経験や理詰めを通して危険を瞬時に察知可能な場合もあるだろう(ex.動物が轢かれるところを目撃する・道で転んでも痛いのにあんな大きいものにぶつかったら危ないに違いないと推定する、等)が、時間や「ソト」は子どもを待たない。だから、子どもの持つ「ウチ」だけでは「ソト」に適応しきれないと保護者が責任を持って判断した限定的場合のみ(重要!)、子どもの将来性と即効の必要性を鑑みて、暴力(体罰や強い叱咤も含む)を消極的に容認すべきと考える。
とはいえ、あくまで「消極的」であって、まず体罰ありきとは思わない。代替的他の手段での指導が可能であれば、そちらによって教育がなされるべきである。
それが、「ウチ」の中に価値判断基準を有したイミテーションの≪ソト≫をこしらえる、という方法だ。自己と同一ではないけれども、「社会」や「公共」の語り部として≪ソト≫を模造する。その≪ソト≫が「ソト」の好むであろうルールを生み出し続けるのだ。
もう一度「ほら、あのおじちゃんに怒られちゃうよ」や「ほら、危ないよ」について振り返ってみればその同一性に気づくだろうし、稚拙さが目に余るだろう。二つの言葉は「ウチ」のルールから一歩も外へ出ていない閉鎖的な発言だからである。こうした言葉を聞かされて育てば、子どもは「ソト」を体得するどころか≪ソト≫を感じることもできず、体だけが成長し、一定の年齢を超えた時点で唐突に本物の「ソト」のルールにさらされる。そんな鋭利な残酷さを想像すれば、教育方法の思考にはある程度の留保をつけざるを得ない。どんな教育しようと勝手、という論理は成り立たないだろう。
 
以上より、「ほら、あのおじちゃんに怒られちゃうよ」や「ほら、危ないよ」や体罰に関する安易な反対論も皆同じく、カウンターパートである「ソト」と子どもとの有効かつ即効の融和手段にはなっておらず、指導方法としては結局適切でない。
 
ではどうするか。
正直に言えば完璧な解決手段は思いつかないのだけれども、「ソト」と触れる機会を保護者自らが数多く用意するべきだろう。「ウチ」の考え方だけでは処理が困難な相手と積極的に対話させ、多様な物事を体験させる。いざというときの保護者としてのセーフティネットは用意しつつ、感覚的に「ウチ」と「ソト」の概念を体得させる(繰り返しになるが、「ソト」ではなく模造的《ソト》を自己の中に生み出させる)。
その上で、「○○(≪ソト≫)の迷惑になるからやめなさい」「○○≪ソト≫も快適にすごせるようにしてあげなさい」と教える。この《ソト》がいわゆる「道徳」であって、「道徳」は「ソト」を完全に理解することができない全ての人間にとって模造すべき要素である。
《ソト》を精確につくることは難しい。価値基準を「公共」(実際は模造の《ソト》だけど)に置くことで子どもの個性の発展が阻害されると考える人もいるかもしれないが、どれだけ「より良い」《ソト》を生み出せるかは非常に個性を必要とする問題で、「没個性的」といった通り一遍の議論とは一線を画している。