臓器移植法改正案について
「一転、臓器移植法案「A案可決」賛成263票」
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090618/plc0906181324009-n1.htm
各案のまとめ(wikipedia:臓器の移植に関する法律)。
A案(2006年3月31日第164国会衆法第14号)
B案(2006年3月31日第164国会衆法第15号)
C案(2007年12月11日第168国会衆法第18号)
D案(2009年5月15日第171国会衆法第30号)
自分はC案に賛成する
以下、個人的見解。
頭と心が整理しきれないけれど、せっかくの今日なので。
今回の「改正」は、「新法制定」に匹敵する政策決定だったと思う。
- A案には、反対。
子どもの人権を侵害するパターナリズムの典型だと思う。子どもは家族の持ち物じゃない。本人の同意抜きで「『死』体」から臓器を取り出すのか。
- B案は、微妙。
臓器提供意思表示カード(「ドナーカード」は「ドナー(臓器提供者)であることが原則」という誤解を招くと自分は思う。)が15歳以上で有効なのは、遺言が残せる年齢が15歳、という民法に準じているからだろう。では12歳の遺言を有効と扱うよう、民法を改正するのか。
- C案には、この4つの案の中だと賛成。
ただし、臓器移植件数を増やすことは難しくなる。
- D案には、反対。
第三者機関による確認を採り入れてはいるものの、本人の同意無しに移植可能というのは抵抗感がある。「子ども」だから意思決定過程に参加しなくてもいいというのか。そもそも「ドナー」の人権を守るだけの実効性が第三者機関にあるのか不明。
臓器移植件数を増加させたいという「政策的視点」から考えれば、人を「資源」や「共有財産」として扱うA案やD案が望ましいのかもしれない。しかし自分は人を「資源」とは思えない。少なくとも、本人同意の無い人間(子ども)から取り上げた臓器を「資源」として考えることはできない。民法上遺言が成立するように、死後の自己決定権も人権として尊重すべきではないだろうか(もっとも15歳未満の子どもは遺言を残せないが。)。A案やD案は本人の意思を軽視し過ぎている。
臓器移植ができないと死んでしまう人が現実にいる、という反論もある。しかし、命を大切に思うのであれば、本来「死」と扱われなかった人が公共のために心臓を止められてしまう可能性があるという危険も、よくよく踏まえておくべきだろう。脳死状態にある人の命は、臓器提供を待つ患者の命よりも軽いのか。
臓器移植に賛成することが「正しいこと・良いこと」というステレオタイプが形成されつつあることにも、非常に違和感がある。「正しい」から臓器移植しなければならないとする偏った視点には、人権保護の思考が欠けている。人間の死を決定することについて、軽率な判断はすべきでないと思う。
政治的にも社会的にも意見表明できない子どもの人権を侵害することには、慎重でなくてはならない。
子どもは大人以上に細胞活動が活発で、脳死状態から復帰する可能性も比較的高い。参考として、心停止して「ご臨終です」の後に死体を24時間安置する理由は、死後間もない遺体は蘇る可能性があるからである。実際に、死体安置所の遺体が蘇る事件がたびたび報道されている。脳死状態からの復帰であれば、心停止状態からの復帰よりも「蘇生」可能性が高いと思われる。人の死の定義は可能な限り医学的に反駁不能な線引きで決するべきではないか(自分の感覚的には24時間でも短いような気がする。現在は遺体保存技術も発達しているだろうから、もっと長くてもいいのかもしれない。)。
墓地、埋葬等に関する法律
第3条:埋葬又は火葬は、他の法令に別段の定があるものを除く外、死亡又は死産後24時間を経過した後でなければ、これを行つてはならない。但し、妊娠7箇月に満たない死産のときは、この限りでない。
選択肢としては、臓器移植法を廃案にする「E案」が存在してもよかったと思う。人の死の定義を、議論を尽くさず安易に変更すべきでない。
それでも、ドナーをかってでる人や移植を求める患者が存在することも確かである。国民からの政策決定要請がある中で立法府の国会が立法不作為状態を放置し続けることは、望ましくない。
よって、子どもの人権を現状で可能な限り保障できる「C案」に自分は賛成する。
関連して
こうした人の死に関わる問題に直面すると、エドガー・アラン・ポーの「早すぎた埋葬」やヤン・シュヴァンクマイエルの『ルナシー』(cf.Dec.9, 2008)、ジョン・ハリスの「臓器くじ」問題を想起する。
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臓器くじ(英語:survival lottery)は哲学者(倫理学者)のジョン・ハリス(w:John Harris)が提案した思考実験。「サバイバル・ロッタリー」とカタカナ表記されることが多い。これは「人を殺してそれより多くの人を助けるのはよいことだろうか?」という問題について考えるための思考実験で、ハリスは功利主義の観点からこの思考実験を検討した。
「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。
- 公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。
- その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。
臓器くじによって、くじに当たった一人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。
- 事故にあって死ぬことよりも積極的に殺すことのほうが罪が重い。
→臓器が必要な人をそのまま死なせるのは見殺しにするのと同じことであって、移植しようがしまいが殺すことに変わりないのではないか。
- いつ臓器を奪われるか分からない状況に怯えることになる。
→多数の人から無作為に選ばれるならば病気や事故に遭って死ぬ確率がごくわずかに増えるのと同じことであり、それを受け入れるのであれば臓器の移植を受け入れない理由はないのではないか。
- 生死は天命によるものであって人が誰が死ぬべきかを決めるものではない。
→臓器を移植せずに死なせることも同じように誰が死ぬべきかどうかを決めることではないか。
- こうした社会制度の下では、臓器を提供する側から除外されるよう人々が競って不健康になろうとするというモラル・ハザードが起きるのではないか。
→不健康になれば自身が病死する確率も高まり、また、臓器を提供することのできる人間の基準が引き下げられるであろうため、長期的に見れば自身の健康をあえて損なうことの意味自体が薄れるのではないか。
- 臓器提供はしたい人がやればいいのであって、籤だからといって臓器を提供したくもない人が強制されるのは人権侵害ではないのか。
→緊急避難の考え方を社会全体に適用できないか。死ぬ人数が少ない方が、より多くの人権を保護することになるのではないか。
- 臓器移植を必要とする人を助ける方法は他にもあるのではないのか。
→思考実験の内容として「死人の臓器や人工臓器では代替できない」とある。
- 社会全体としては、臓器移植が必要な重病人数人の生存よりも、健康な人間一人の生存のほうが有益なのではないか。
→健康な人間一人が社会全体に与える損益は、その個人の生命活動そのものとは無関係なのではないか。また、移植を受ければ健康状態は格段に改善する。
- 臓器くじに超一流の芸術家やスポーツマンが当たった場合どうするのか。
→臓器をもらう側も超一流の芸術家やスポーツマンである場合もあり得るし、提供する側が凶悪な犯罪者である場合もあり得る。
脳死を「人の死」と定義するのは「早すぎる埋葬」なのではないか。
いやいや臓器は公共の資源だ。脳死を待つなんてもどかしい。いっそくじ引きで殺したっていい。
どのような政策が人間をより「しあわせ」にするのか。
…生命倫理の問題は、判断が本当にむずかしい。