皮膚感覚

okapia2007-04-17

「私の皮膚感覚では〜」みたいに使われる、「皮膚感覚」という言葉。皆さんは使いますか?先日も、キャスターの安藤優子さんが「皮膚感覚としては人々の間で理解されているんでしょうが、まだ完全には受け入れられていませんよね」という感じの文脈で使っていました。
これは昔から使われている熟語ですか?それとも現代の造語?最近何度も何度も耳にするのですが、意味がいまいち精確に把握できていない自分は、その正体がずっと気になっています…。
 
大きな辞書で調べてみても、

ひふかんかく【皮膚感覚】

皮膚およびこれに接する粘膜で感ずる感覚の総称。冷覚・温覚・痛覚・触覚・圧覚に分けられる。
(goo辞書 大辞林 第二版)

といったように、生物の五感のうちの触覚、あるいはその下位感覚の総称としての「皮膚感覚」の説明ばかりで、ここで話題にしている「皮膚感覚」の語義は、さっぱり掴めませんでした。
 
もちろん、何となくは分かります。…それこそ「『皮膚感覚』では理解しているんだけど」といったところ。
 
じゃあ実際の使用例を探してみようと思い、ネット上をしばらく散策してみました。
以下は、一応の結果です。読んだ記事の量が膨大で、逐一記録することはしませんでした。現在の社会で一般的にどう使われているのかを自分なりに再構成してみたものなので、参考ソースを明示する必要は無いかと思います。そのため、学問的あるいは辞書的に正しい保証はありません。きちんとした定義は未来の辞書に任せましょう。
 
「皮膚感覚」は社会学的な用語か。「皮膚」は「自分」のフロンティアに位置するものだから、その外側は「自分以外のもの」。「自分以外のもの」=「よく分からないもの」(逆に言えば、「自分」=「理解可能なもの」)。その「よく分からないもの」を「皮膚(自分自身の内部に入る直前、最前線の壁・砦)の感覚では理解できている」ということは、表面上は理解しつつあるが自分の内面では理解できていない、ということ。「皮膚感覚では」を他の用語に置き換えるとすれば、「直感的には」「何となくは」「一応は」「表面的には」「感覚としては」「イメージ的には」…といった感じでしょうか。「非常に曖昧だけれども頭の中では問題を理解している(つもりだ)。でも、理性的論理的に考え始めたりするとそれは決して明確ではなく、心の底から問題を実感・確信できているわけではない。」というように、自己の曖昧模糊とした体験感覚のニュアンスを出すための言葉?
 
…煙を掴むような説明、皆さんの皮膚感覚では理解していただけたでしょうか。
自分自身の曖昧な感覚を咀嚼することをせずにどうにかして相手に伝えたい、みたいな独りよがりの印象が残ったので、自分ではあまり使わないようにしたいなと思いました。
 
(画像source:http://www.linkstyle.co.jp/index.html