『東京の廃駅』

okapia2008-02-13

『東京の廃駅』
http://e924.hp.infoseek.co.jp/hi/0004.html
東京の廃駅写真がたくさん見られるサイト。
廃墟写真が好きな自分。兵どもが夢の跡…ではないけれど、廃れた跡地は生命で満ちています。
 
また別途記事にしたいような話ですが、ばりばり修復されたような建造物が、自分はあまり好きではありません。入場料とか拝観料とかをとるような施設は往々にしてそう。世界遺産だとか重要文化財だとか、今でも住んで使えるぐらいに手直しされた建物には命を感じない。
もちろん建築としてあるいは美術品として眺める分には好きだけれど、そこにロマンや新鮮さを感じるかといえばどうでしょうか。長年放置されていた自然な姿の方に、より大きな魅力を感じます。
極端にいえば、建物なんかすっかり無くなってしまっていて、草っ原に「○○跡」と書かれた看板が一本、そんな場所だって楽しい。
だって、この手で触れたいのは真新しい材木じゃない。両足で立ちたいのは綺麗な石畳の上じゃない。どーんとぶつかってみたいのは、整備された広場でも外国の空気でもない。「本物っぽい」物が見たいなら、CG技術を磨くべき。人の手で永らえさせた美術工芸品よりも、もっともっと大きな世界や文化、真実に思いを馳せたくて、その場に行く。
それなら結局、実際に行く必要は無いじゃないか?写真や紀行文でいいんじゃないの?
言い得てますね。否定しません。
 
話を少しずらして、観光って何なんだろう。何を見るもの?何を感じるもの?
「日本人の観光(加藤秀俊)」
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/2571.html
ここでも書かれているように、「私はその場所を訪れた」という聖地参拝や巡礼的な意味合いはあるのかもしれない。あとは話のタネと行楽、友人や旅先の人間との触れ合い?
観光がそういったものだと考えたときに、それでは観光する「場」で一体何をするのか。
一番の目的を上に述べたような場所経験やモノ語り、コミュニケーションと考えるなら、自分の考えとは水掛け論になるかもしれない。
 
自分が重視したいのは、あっちの世界とどう繋がるか。擬似現実を介して擬似現実の枠の中でストーリーを再現するよりも、ありのままの現実や手元のかすかな手がかりから遡って無限に世界を広げていく方が楽しい、と思うのです。「場所」というよりも、そこは純粋な「場」。虚像から現実、あるいは虚像から真実へは道違いで決して行けやしないけれど、現実から真実には誰でも辿り着ける。自分の心の中で創る道は、自由自在に建設できるんだから。場から思いを馳せること自体が楽しいなら、やっぱり廃墟は楽しい所だ。
 
にしても、人間がいなくなるだけで廃れるスピードが異様に速いのは何故だろう。建物は人間が作ったから、とか?
 
(画像:http://www.flickr.com/photos/60405541@N00/208929936