一周年

okapia2008-02-14

このブログを始めて一年が経ちました。
もやもやとしたものを、もやもやとしたまま記録しておく。結論を急ぐよりも、他人や未来の自分と思考のキャッチボールをするために記事を投げ込む。記事を書く、選ぶ、表にさらす、考える、整理をして、またもやもやする。そこに実は自分の通った筋道あって、それを発見して一人でニヤリとする。一転次の日、足元が分からなくなる。
それは不安?
ではない。あくまで未来での変化を前提に今を歩くだけ。目標を立てて自分の未来を変容しているというより、到来した未来によって、全ての過去の意味が変質されているイメージ。
未来志向?むしろ未来から見た過去思考、未来を基点にした現在思考、だろうか。過去や今に何かの意味や意義を与えるのは未来によってでしかないのだから、たくさんの未来を描いて、選んで、自分をコントロールしていくしかない。
それは状況的には不安定、でも心は不安ではない。未来も過去も今も、全てを自分の中に突っ込んでいられるんだから、それはそれは安心できるんじゃないかと思う。
 
思ひ出すとは忘るるか、思ひ出さずや忘れねば。思い出したくないから、書く。忘れたくないから、書く。
 
公開するための頭の整理、インターネット上の言葉や人間との対話は、貴重な体験だった。一年かけて学んだ一番のことは、思考の過程を誰かに投げるのをおそれないこと、だろうか。各々内向的に作り上げた結論をぶつけ合っていては、真実はきっと見えなくなる。だったら一緒に真実を目指せばいい。そんな風に思えるようになった。ゴールに辿り着くことは永遠に無いかもしれない。けれど通った道、今歩いているこの道は、先にある真実に続く道なんだと思う。それで十分。
 
ただ近頃、集まってくる情報を処理しきれていない自分がいる。読んで選んで書く、そのプロセスが前よりも窮屈。次々に注ぎ込まれる水が、風呂桶から溢れ出してきているような気がする。ナイアガラの滝のようにダイナミックな情報処理ができている方々を見ていると、自分なんて…と卑屈になる。ブログに限らず、勉強でも何でも。ウェブを通じて、頭のキレる方々と出会う機会が増えてきて、去年以上にそう思える。しかも彼らは、歴史の奥底の偉人ではなく現在この世界で生きているわけで、いやはやすごいなぁと嘆息してしまう。
うーん。どうしたらいいのかな。インプットアウトプットを力強くそして早くするための一種の思考の訓練にはなっているようだから、とりあえずは修行と思って楽しむつもりだけれど。

それに、忙しくて頭がフル回転しているときに書いた記事の方が、後から読み返したときに興味深かったりします。思考途中の考えや、まだ結論が出ていない問題、そうした内容の方がブログに載せる価値がありました。暇なときに書いた記事や、自分の中で常識になっているような内容をぐだぐだ並べたような記事は、いま読むとあまり面白くありません。すっかり固まって出来上がった考えや、信念みたいに強固になっているような強い思いは、いくら書いても自分の成長に繋がらない。まだ考え途中で、反論を受けてもその意見を柔軟に吸収していけるような状態、そうした中途半端な思考状態ほど、ブログに反映させる甲斐があります。

昔の自分(May.24, 2007)も、こう言ってるしなぁ…。頭に取り入れる情報量をできる限り減らさず、処理能力の方を上げていきたい。それがきっと、自分のためになるはず。誰かのためにやっているわけじゃないしね。あくまで、自分のため。
きっとまだまだしとしと雨。この一年は、洪水くらいの情報量でさえ何とか処理できるくらいの力をつけたい。今やらねばいつやる。自分がやれねば誰がやる。
春からの新生活が始まっても、ぜひとも満足いくようにしていきたいものです。
 
(画像:http://www.flickr.com/photos/38015909@N00/407515287