「空気を読まない」人と喧嘩したいこの頃

okapia2008-03-04

「空気を読めない」を意味する「KY」という言葉が多用されている。場の空気を読めない、協調性が無い、それらを冷たく非難的に評価した「KY」。
これはすごくつまらない風潮だ。
「KY」という短い言葉は、「空気を読めない」人だけでなく、貴重な「空気を読まない」人々をも社会から排除しかねないからだ。
ここで、

【A】「空気を読めない」
【B】「空気を読まない」

両者の違いを考える。
【A】と【B】は大きく異なる。【A】「空気を読めない」は周囲との距離感や他人の立場を軽視しているという、相手方の能力の不備を指摘している。かたや【B】「空気を読まない」は、一見傍若無人に行動しているように見えて実際は長期的な視野を持ち自らの哲学を貫いている、といった場面にも当てはまる言葉だ。
場当たり的で短絡的な思考しかできない人ほど、KYKY吐き捨てていることが非常に多い。
自分自身の意見や確固たる立場さえ持たずに、「空気」なんて読んでどうする。そんな風に自分勝手に読み切った「空気」は、はたしてどれだけの意味を持つだろうか。
中途半端で不明瞭な「空気」よりも、あえて「空気」なんかを読まずに勇気を振り絞って述べた大切な一意見の方が、百倍価値があると考える。いつだって世界を前へ進め新しくしてきたのは、「空気」を読んだ人々では決してなく、「空気を読まない」敢然とした人物だったのだから。
相手が自分自身を持つこと、世界が改変されることをはなから否定してしまう「KY」という非創造的な暴言が、自分はとても好きになれない。「KY」の一言は、多数意見の思慮無き際限無き増幅、いわば民主主義の失敗状態をいとも簡単に招きかねない。そんなことを繰り返せば、新鮮な意見の芽や相手のかけがえのない夢を摘み取る結果に繋がってしまうだろう。相手と違う意見を持っているならば、あやふやな「空気」なんかに頼らず、自らの意見を明確な言葉にしてきちんと表明すればいい。「空気」を隠れ蓑にする姿勢は、互いのコミュニケーションを拒絶し、自己の考えを是が非でも守り切ろうとする卑怯で幼稚な行動である。
上記「空気」の語を、マスコミや政治家が安っぽく使っている「世論」の語に入れ替えれば、現在の政治状況にも当てはまるのではないだろうか。何を実現したいのか明瞭に述べずに当選し、実体の見えない「世論」に惑わされながら行われ続ける政治活動。それらはただの自己保身でしかない。
価値観が多様化し、互いを建設的に認め合おうとする現在の世の中だからこそ、「KY」なんて無下にあしらわずに、きちんと顔を突き合わせて話し合いたいと思う。変な「空気」や権威に擦り寄った議論は願い下げだが、腰を据えたまともな喧嘩は大歓迎。
 
(画像:http://www.flickr.com/photos/59562568@N00/200049988