タイムラインのつくりかた。

okapia2008-07-21

@nifty TimeLine
http://timeline.nifty.com/
xtimeline
http://www.xtimeline.com/
両方とも、無料・手軽にタイムラインを作成できるオンラインツール。
好きなものに関する年号、出来事、その詳細を書き込めば、時系列に視覚化されます。
自分のこと、物のこと、人のこと、社会のこと。素敵に時間を描けます。
 
年表を見るとわくわくします。
年と年の間のこんな小さなスペースに、どれだけ濃密なドラマがあるんだろうって。
年号を覚えるのが得意なわけではないけどね。
 
歴史のダイナミックさや、逆に捨象された部分は何だったのか思いを馳せつつ、眺める。
自分を紙片に刻んでみるのも楽しいかもしれないです。
 
 
…ちょっと思い出したエントリがあったので、ここに貼ります。
「落書き」は文化を破壊しているか?
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080705/p1

……たとえば我々は21世紀のフィレンツェの大聖堂においてなされる落書きをノイズとして拒否するのに対して、1世紀のポンペイの街並みにある落書きは、「生き生きとした庶民感情の発露」として受け入れる。でも、もちろん1世紀の時点において、ポンペイの落書きが「生き生きと」したものとみなされていたわけではない。それは、2000年を経過した我々の視点から見る限りにおいて「生き生きと」したものとして認識される。
 
とはいえ、ポンペイの「生き生きとした庶民感情の発露」は2000年かけて、火山灰の中でだんだんと醸成されていったものではない。むしろ、あらかじめそこにあったものだ。ただしそれは、現在の視点において我々が視線を投げかけることによってのみ立ち現れる。もし、フィレンツェの大聖堂がその建築以来、何百年にもわたって落書きをされつづけていたとすれば、我々はどの時点で「生き生きとした庶民感情」と「ノイズ」の線を引きうるのだろう?
 
一般的な文脈で「落書きはいけない」というのは理解できる。しかし、落書きが文化(歴史)軽視、文化(歴史)破壊のような行為として捉えるならば、それは間違いだろう。大聖堂は、それだけが抽出された状態で、中世そのままの時代に生きているのではない。現在の大聖堂は建築時そのままの趣を携えて、連続的なものとしてそびえていると考えるのは「創られた伝統」に過ぎない。大聖堂は常にそれぞれの時代とそれぞれのやり方で関わってきたのであり、その営みも含めて文化、あるいは歴史と呼ぶのだろう。とりわけ、ブローデルが「長期持続」と呼ぶような文脈においては。……

「ノイズ」という表現に、あらためてはっとしました。
例の日本の短大生の落書き事件そのものについては、道徳的に幼稚だったということで今回は話の隅に寄せます。
 
より深く考えるべきは、歴史の「ノイズ」に対して私(たち)は拒否しているのか、はたまた許容しているのかということ。
以前ぼんやりと書いたように(参考:Feb.13, 2008)、「ノイズ」を潔癖症のごとく除去して永らえさせた建造物には歴史は息づいていないと自分は思っています。
「ノイズ」にまみれたものの方が限りなく実体であって、「ノイズ」が除去されたものは歴史や文化が根本から切り落とされた特殊な美術品に過ぎない。
過去は現在と陸続きだからこそ「同じ」もの。現在と対峙できない存在は歴史の海に安住できない。
 
一歩譲って、「現在」の「ノイズ」の除去活動をも包含して一つの「文化」や「歴史」と見れば…ってぐらいぼやかされると、じゃあそもそも歴史の海を泳ぐためのスタートラインは目の前の「きれいな」建造物でなくてもいいんじゃない?と思ってしまうわけだ。
何に固執しているのか、一体何が大事なのか、疑わしい。
泳ぎ始めるスタートラインは写真でもいいし、映像でもいいし、ちょっとした文章の一行だって誰かのさりげない一言だっていいはず。
 
だったら、建造物はゴールか。
そんなはずない。ゴールは歴史の中にしかない。
 
落書きをしたら全て一気に台無し、とか考えている時点で、歴史の海からは大きく離れたどこかへ意識が行ってしまっているような気がする。
「ノイズ」を忌み嫌う「彼ら」は、対象の本質ではない「何か」を一生懸命守っている。
その「何か」を上記エントリの筆者は「道徳」と表現しているんだろう。
観光で感じたいのは「道徳」か「歴史」か。この目で眺めたいのは「美術品」か「歴史」か。
 
現実から真実へはたどり着けるけれど、虚像から真実へは道違いでたどり着けない。
きれいにきれいにと現実を否定しながらせっせと虚像を創り上げるのは、小石が邪魔だからといって、無重力の中で地面を蹴り上げるようなもの。
思いを馳せるためのスタートラインからさえも足元がすくわれ、ぐんぐんと空の彼方へその身が離れて行ってしまう。
 
もちろんもちろん、大聖堂を壊してしまえなんて全く思いません。
器は無いよりあった方が中身は収まりやすい。
自分が重視しているのは、中身を腐らせてまで外身を愛でても仕方ないということ。
 
歴史は流れ(timeline)の中にあってこそ歴史。
 
海からすくった小瓶の水は海の水に違いない。
瓶が割れてあふれ出しても海の水には違いない。
蒸留すればただの水。
きれいな水はただの水。
きれいな水は、腐らない。
塩を入れてもただの水。
 
それだけの話じゃないのかな。