「外人さん」問題を考える

okapia2008-11-13

先日、友人が
【1】「外人」と「外国人」の意味は同じなのか違うのか?
という質問を日記で書いていた。
 
これは自分も長い間もやもやと抱いていた疑問だったので、少しだけ腰を据えて考えてみた。
 
まず、今日の日本人が有する一般的な認識。

  • 「外人」はよそ者を意味する差別用語らしい。
  • 「外国人」を使う方が望ましいらしい。
  • 「ガイジン」に対する嫌悪意識は別に高くない。むしろ好きな人が多いでしょ。

 
一つ一つ検証する。
 

  • 「外人」はよそ者を意味する差別用語らしい。

「外人」は文字通りに読めば「外からの人」。英訳すると「エイリアン(alien)」だそうで、あの宇宙からの侵略者(cf:映画『エイリアン 新生アルティメット・エディション [DVD]』)と一緒にするのか!と批判的な声も多い。
ただ、言葉は深みがあるものである。字面だけでは推し量れない部分もあるのではないだろうか。
 

  • 「外国人」を使う方が望ましいらしい。

たしかに「国」がついた分だけ言葉の意味はより明瞭になる。「外からの人」ではなく「外の国からの人」。
けれど、何となく言葉遊びの域から逃れていないような気がしないでもない(どっちだ)。
要は「国」をくっつけて、差別じゃないよ!って必死でフォローしているだけ。「外国人」では、日本人の持つ「ガイジン」に対する主観的イメージそのものには立ち入っていない。
 

  • 「ガイジン」に対する嫌悪意識は別に高くない。むしろ好きな人が多いでしょ。

日本人は総じて舶来物好き。好きなブランドも、憧れの芸能人も、好きな国でさえ、外国製を挙げる日本人はたくさんいる。実際、古代中国をはじめ、文化的にも諸外国からたくさんの影響を受けてきた。
また、「ガイジン」が片言の日本語を使うと大破顔で歓迎してくれる日本人は多い。我を通すのではなく郷に従ってくれているちょっとした健気さがとても嬉しいのだ。
もちろん外国語で話しかけても、多くの日本人は一生懸命相手の意図を理解しようとするだろう。「困っているガイジン」には、なぜか妙に優しくなってしまうような気がする。
そうした友好的な認識の中で、日本人は差別意識を込めて「ガイジン」を使用しているだろうか?自分はまったく異なると思う。
 
 
では次に、
【2】どんな言葉なら日本人の持つ「ガイジン」イメージを的確に表現できるか?
を考えていく。
 
結論から先に述べれば、「外人さん」である。
 
そもそも「さん」は「さま」に準じた尊敬を表す言葉であり、「仏さん」「恵比寿さん」「桃太郎さん」「お月さん」「お稲荷さん」「雷さん」「社長さん」「お父さん」「お母さん」「角栄さん」…などなど、「さん」が付く尊敬語は枚挙に暇がない。
こうした謙虚な尊敬「さん」を、「外人さん」、と「ガイジン」に対して日本人が使用する理由は何なのであろうか。
これはやはり、「ガイジン」に対して尊敬や憧れや畏怖の念が込められているからであろう。「ガイジン」は、客観的に見ればよそ者ではあるけれども、主観的には「自分の知らない外の世界や文化を知っているえらい人」なのだ。
つまり「外人”さん”」には、「よそから来た人」という客観的事実と、「あぁすごいなぁ」という謙虚な主観的認識の両方が含まれているのである。
 
自分は、「外人さん」という表現は好ましいものであると考えている。
なぜなら自分も例に違わず「外人さん」に対して尊敬や憧れや畏怖の念を多分に有しているからである。
よって当記事内で、あるいは日常的に、「外人さん」という表現を多用する。このよそ者め!日本から出て行け!などといった、否定的な他意はまったく無いものと理解してもらえるとありがたい。
 
 
最後に、
【3】「外人」や「外国人」をはじめ、「渡来人」「南蛮人」「異国の方」「外国からのお客様」「外人さん」「ガイジン」…等々、様々な表現が混在しているのはいったいなぜか?
を考える。
 
これも結論から言えば、認識の多様性によるものだろう。平凡な説明なので、誰にでも理解できるはずだ。
言葉は、使用する人間の意識的・無意識的認識を表象する。
「無意識的」が含まれるのがポイントだ。言葉の意義は、紙にふわふわ浮かび上がるあぶり出しのように、言葉端に丹念に注意深く火を当てなければ正体がわからない。それを何も考えずに遠火で聞き流すのももったいないし、差別だ差別だと近火の強火でぼうぼう燃やしてしまうのも無粋だ。
だから、とりあえずごにょごにょと言葉の形成過程の個人的仮説を述べたいと思う。
 
そもそも日本は長い間鎖国をしていたので、昔は「国(nation)」という概念を全く意識していなかった(「薩摩」とか「長州」とか、自分の出身地方を表す藩(clan)は別)。特に江戸時代以前は、日本全体が国家的に統一されていなかったので「日本」という「国」そのものを民衆一人一人が意識する機会は少なかった。だから、外から来る人間はすなわち「外人」であった。自分の知らないところ、ましてや海の向こうから来る人間は、間違いなく「外人」であった。
しかし欧米と積極的に交流するようになった明治時代をむかえ、昔から使われてきた「外人」に「国」の概念が初めて加わり、ようやく「外国人」という言葉が生まれた。それはほんの100年ほど前の時代だった。
上記のような歴史的な理由が存在するため、「外人」「外国人」両方の言葉が使われているのではないだろうか。
 
ただ近年、「外人」は差別用語だ!人権侵害だ!と訴える人も増えてきたから、公共の場では「外国人」を使った方が良いとされているのだと思う。実際外人さんの中には「ガイジン」と呼ばれて無性に傷つく人もいるようだし、こっちにその気がなくても相手が嫌がるならもう使わないようにしよう、と考えるしおらしい日本人が増えているのではないか。
 
一方で、「俺は『ガイジン』だ!」と開き直ってポジティブなアイデンティティを主張し始めた外人さんも増えているようだ。素敵なことだと思う。だって、「Native Japanese」じゃないというだけで一目置かざるを得ない。自分たちは、日本にいる限り「ガイジン」には絶対に成れないのだから。
 
 
…うーん。
 
 
どの表現が正しいかのすっきりとした解答は出なかったけれど、「外人さん」という言葉に悪意は無いことが確認できただけでも、考えて良かったと思う。
 
もし偶然にもこの記事を読んだ外人さんがいたとしたなら、日本人は外人さんたちに一目置いてきたし、今も置いているし、きっとこれからも置き続けるよ!と言いたい。嫌われたくないというより、日本人や日本語を誤解して欲しくないから書く。「ガイジン」と言われても日本人に疎外されてるとか嫌われてるとか全然考えなくていいよ!むしろたぶん逆だよ!、と切に訴えたい。