社会観の原点における世代間格差

アメリカ歴代大統領を辿る。
ジョージ・ワシントン(1789年)からバラク・オバマ(2009年)までの220年間。
 



 
前に採り上げた女性の肖像画の動画と似ている(cf:Jan.4, 2008)。
日本の総理大臣でも見てみたいな。西園寺公望桂太郎が交互に出てくる桂園時代(伊藤博文死去後の臨時兼任西園寺を入れれば6連チャン!)が一つの楽しみ。アイディアとしては、大統領の動画みたいに一人ずつ均等に送るのとは別に、在任期間で長短つけて流すのもおもしろいかも。まだ続くか佐藤栄作!みたいな。
 
時代は巡ってるね。巡る時代を生きている。
発泡酒を片手にこの動画を眺めているせいか、世の移ろいについてなんとなくあれこれと考えてしまう。
 

「総理大臣」といえば誰?

総理大臣といえば、今年に入ってから、「好き嫌いは別として、『総理大臣』といえば誰?」という質問をうちの家族に対してした。すると、祖父母は「田中角栄」、母は「池田勇人」と答えた。
決して政治談義をしようと思ったわけではなく、ふとした思いつきである。自分は「小泉純一郎」が浮かぶ。
これはなかなかおもしろい問いかけだなと個人的には思っていて、パッと即座に出てくるリーダー像にはそれぞれの時代観や価値観がにじみ出ているんじゃないだろうか。興味深い。

社会観の世代間格差

たとえば、不況不況とマスコミに喧伝されても自分自身は「好景気」の時代をまったく知らないわけで、株価や所得は下がるのが「普通」だと認識している。比喩を使えば、冬に生まれたのに秋に凍えていられるかということ。何事も無駄を省くことが大切で、世の中に住まう人々の信条は複雑多様だから合意形成はややこしくて、少なくとも経済的な自由主義(いわゆる「新自由主義」)が存在しなければ地球は平和になるどころか世の中がちっとも動いていかない、と直感的に信じている。主義主張の功罪は別として、こうした社会観が自分の「常識」や人生観の基礎だ。いわば「破壊」が日常だと感じている。めまぐるしい負の変化を原点として、さてこれからは何を研ぎ澄ますか何を変えようか、という視点で社会を考える。自分はベルリンの厚い壁の鋼鉄のような硬さを知らないし、ワールドトレードセンターを築くにいたるまでの金融史の凄みも理解しきれない。巷では包丁や壁掛け時計は100円で投売りされ、冷凍食品に毒が入っていることもあり、食品表示は飾りみたいなもので、年金は減るのが当たり前で、自民党は明日にでも負けそうで、空を見上げればミサイルが頭上を飛ぶ。
それが「普通」。

「原点」の違い

この頭の中と、父母、祖父母の社会観とは丸きり異なるんだろうなぁ、と常々感じるようになった。
むやみな公共事業について「どうやら良くないものらしいから変えよう」と、さぁ民営化だ自由化だと挨拶のように聞かされて育った自分の世代の「改革は当然じゃないの」という意識とを比べれば、やっぱり違う。
結論的言動や現在の社会的コンセンサスは同様に思えても、だからこそ「原点」をどこに置いていたかの差異(とそれに起因した効果)が近々シビアに表出してきそうな気がする。

意識差の将来的顕在化

どちらが良い悪いの話じゃなくて。
世代間のこの「小さな」意識差はきっとそのうちますます顕在化すると思う。
だって「若者(主にバブル以降の10-20代前半をイメージ)」の倍ぐらい「高齢者」がいるんだよ。その上若い人の投票率も低いから、一票の格差は甚大!(都市と地方の一票の格差の問題と比べて、よりマクロ的な意味だけれど)
世代間の一票の格差が大きい→若者の意志が反映されにくい→政治的無力感発生→若者の投票率低下→年配者重視の政策→若者の政治的無力感増大…のスパイラル。
さすがの「何も考えていない」若者だって、そろそろ何か憤るところがあると思うよ。
 
「次世代のための責任ある政治」を希求するのであれば、どうにかして制度の根本から変えていかなきゃいけないはずだよねー。…と、ここは自論か。