意思表示の一票

okapia2007-04-08

今日は統一地方選挙。どの候補が云々なんかの無粋な話はこの場では置いておいて。結果は必ず出ます。夜の開票速報を待ちましょう。
選挙に行くのは国民の「義務」だと単純に言いのける方もいますが、やはりこれは参政「権」であって、「権利」であっても「義務」ではない。たしかに、オーストラリアやイタリアなどでは市民による投票が義務化されている場合もありますし、明確な数として国民の意思が表示されるのは分かりやすいかもしれません。それでも、AやBで単純に決められない政治に対する漠然とした不信感が表現しにくいことや、全体が義務的に参加した選挙で曲がりなりにも多数決で案が決まってしまえば、政策執行者に対して歪んだ「お墨付き」を与えてしまうことになってしまう危険性があることなどを考えると、どちらも一長一短過ぎて、社会経験の少ない自分にはまだ判断がつきません…。より「健全」な民主主義は、たぶん日本のように参政権が「権利」である国だと、直感的には思っています。
今日の選挙だって、自分は直前まで白紙で出そうか迷っていました。「決められなかった」の意思表示は、白紙票しか手段が無い。でも、決めない消極的現状肯定よりも、積極的に意思を表現してメッセージを持たせたいと思って、きちんと候補者の名前を記入してきました。
「選挙に行かない」のは、「国の政治システムに参加しない」ことであって、「候補者全部ダメ」の意思表示にはならない。だからこそ、システムのインプットである「投票」を行わない人間は、決定されたアウトプットとしての政策に不平不満をたれる根拠は全く無い、と言って良いぐらいに享受できる「権利」に乏しくなる。政治家や官僚への口利きも、ある程度効果はあるかもしれないけれど、直接的で明示的で誰でも確実にインプット効果を発揮できるのは、今のところ投票行動以外に無い。単なる棄権は、現状の憲法の下での政治システムを完全に否定したに等しい。けれど、憲法を改正するにあたっても国会での発議が必要なのであれば、今現在の政治システムの放棄は本末転倒となってしまう。政治を変えたいのであれば、まずは今の政治システムに参加しなければならない。だから、「候補者全部ダメ」や「政治は何も変わらない」という理由での棄権は、理由にならない。
一票如きで何が変わるか、という見方もありますが、誰が勝とうとも投票した一票は何百年先にも記録として残ります。二位と百万票差の一位は鼻高々かもしれないけれど、二位と一万票しか差のつかなかった一位は、前者と全く同じように自治体運営が出来るでしょうか。負けが分かっていても、少しでも差を詰めるため。勝ちが目に見えていても、圧倒的大差で勝たせるため。たとえ勝負が決まっても、白紙票の多い選挙で勝ったことを当選者は誇れるだろうか。
一票一票の集合は、使い方次第でとても繊細な意思表示ができます。まだ選挙に行っていない方は、ぜひ出来るだけ分かりやすい形で意思表示してみてください。
記事を書いていて、「権利」である投票権を国民が自ら行使するからこそ、そこに生まれ表れる「意思」に大きな意味と命が宿るのかもしれない、と思いました。
 
(画像source:http://eyes-art.com/pic/