置き換え遊び

okapia2008-12-07

書いて消してを繰り返している。本当は書きたいのに!と叫ぼうか、本当に書きたいのか?と自身を疑おうか。
これは<書く>ことに限らないわけで、自分の<行動>であれば時々にわか雨のように舞い降ってくる葛藤。<葛藤>とかそれっぽい言葉で片付けると解決した気になるので、隠語代数変格活用として便宜的にこれを<いろは>とする。
<いろは>は厄介。悩めば悩むほど成長するというけれど、成長に気づいた頃には悩んでいないわけで、成長させてくれた悩みに気づかなくて済むようになるだろう。一方で悩んだ過去に気づいた自分は未だ<いろは>の裾野を抜け出せていない状態で、<いろは>から逃れれば逃れるほど<いろは>ときれいに混ざり込んでゆくのである。こんな自分を隠語代数変格活用として便宜的に<ほへと>とする。するしかないのである。
周りを見れば言葉遊びにあふれていて、言葉遊びに長けた人はなんとなく偉く見える。置き換える対象と道具の違いが文系・理系を分け(るような気がして)、個人の<レベル>を峻別する(ような気がする)のだ。
この時、<いろは>は<ほへと>に成り下がり、<いろは>は<ほへと>に成り上がる。
そういえば<いろはにほへと>と続くコトバがあったなと気づいたあなたは、何か変なものに従っている。何に身を任せているのか理解せずに盲従する状態にあるとき、あなたの存在は非常に危うい。
罵声を発する殺人鬼は、何かに従っている。ほんの何百年かの法令と照らし合わせて、<殺人鬼>と耳慣れたレッテルを貼られる(もしくは主張する)。はたまた日本語という文法であるのか、自然界の空気の微細な振動であるのかはわからないが、たとえ空に何デシベルを叩きつけようとも、血飛沫を浴びることで強烈に<個>を示したかった無鉄砲な彼は、彼だけでは彼を示せないのである。慄然とした彼は消え去りたくなるのかもしれない。しかし彼が発見した最もおぞましい事実は、消え去りたくとも消し去れない状況に彼が立たされているという、声にできない苦しさである。