くっつくときは慎重に。
『市町村変遷パラパラ地図』
http://mujina.sakura.ne.jp/history/
市町村の移り変わりをGIFアニメのパラパラマンガで眺められるサイト。一種の歴史地図(cf.Oct.7, 2007)。
たとえば、秋田県のパラパラ地図。
http://mujina.sakura.ne.jp/history/05/matome.html
市町村が、まるで国盗り合戦のように猛烈に減っていく。
平成の大合併では、明治の大合併や昭和の大合併で合併の動きが鈍かった県の集約勢いが特にすさまじい。秋田県はその典型例の一つだ。
合併すれば「しあわせ」になれるか
合併にはメリット・デメリット両方が存在する。よって、合併「する」「しない」どちらが良かったのかはわからない。合併の「結果」を誤差無く精確に評価するためには、時空を超越する必要がある。そんなパラレルワールド水掛け論は、面倒なのでここでは脇に置いておく。
精査すべきは「過程」の部分である。
平成の大合併において、合併すればそれだけで現状の問題点が改善する、というような安易な思考が住民に蔓延していた点は、いまだに解せない。これは秋田県においても当てはまる。
行政の効率化と充実を推進するためには市町村合併も仕方ないことだった、とは思う。しかし、本当に実現したいのが何なのか住民自身が理解し(ようとし)ないまま「なんか合併した方がいいらしいけど…みんなどうする?」的に結論の決まりきった議論をしながらずるずると合併に至ったところで、住民の「しあわせ」は実現できるのだろうか。議論や説得や納得を通じた討議的合意形成過程の積み重ねなくして、住民の「しあわせ」は決して実現できないと自分は強く思う。
念のため付け加えると、自分は広域行政の推進には賛成の立場だ。過去の合併論議にやや批判的な理由は、市町村合併にしろ道州制にしろ最終的結論にいたるまでの合意形成過程がすっからかんでは誰も「しあわせ」になれない、と信じており、その観点から過去の合併論議を振り返るとあまり評価できないと感じるからである。
「ひらがな」で消えるものたち
また、「ひらがな市」をもてはやした一時のブームにも、複雑な気持ちにさせられた。
地名は土地の歴史や文化を静かにかつ如実に物語る貴重な存在であって、名称を変更する際には細心の注意が必要だ。民俗学者の谷川健一氏は、地名は最も息の長い文化遺産だ、と述べている。
「ひらがなは字面が間抜けだからおかしい」と批判する人もいるが、問題の本質はそこではないと思う。ひらがなにはひらがなの風情がある。「さいたま市」が何か生理的に変な気がするのは、他の市町村が漢字ばかりだからだ。他の市町村が99%ひらがな名になったら、変なのはきっと漢字名の方だ。カタカナばかりのアメリカの地図で「ロサンゼルス(Los Angeles)」だけが急に「羅府(ロサンゼルスの漢字名)」と表記されていたら、誰だって妙だと思うだろう。ひらがなが気になってしまうのは、要は雰囲気の問題だと思われる。
ただ、地名変更で生じる歴史の消滅は「雰囲気の問題」では片付けられない。
たとえば、「大宮市」を(与野市・浦和市と合併させて)「さいたま市」に変えるのは、氷川神社の門前町として栄えた武蔵国一宮の栄光の歴史をばっさりと切り捨ててしまうようなものである。お偉いさん方は、そうした歴史と伝統の深遠な厚みを承知の上で、あえて「親しまれやすい」ひらがなの「さいたま市」を選択したのだろうか。軽率であったとの批判は簡単には免れられないだろう。
ただし、大宮地域については2年後に「大宮区」が誕生したそうだ。論点を微妙にずらした妥協の産物な気もするが、落としどころを上手にかぎ分けるお偉いさん方の調整力に、ちょっと感心している。
一方で、大宮市復活を狙う勢力の火はいまだにぶすぶすとくすぶっている。
『大宮市亡命市役所』
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/3440/
なかなかすごい剣幕だ。